REVIEW

cameraサクリファイス

サクリファイス

佐藤忠男

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アンドレイ・タルコフスキーの「サクリファイス」は、たぶん、カール・ドライヤーの「奇蹟」以後の真の宗教映画である。ふつう宗教映画といえば、宗教について宣伝する映画をさすので、芸術作品とはみなされないものだが、この二本の作品はその意味では例外である。ドライヤーがそうしたように、タルコフスキーもまた、映画を作るという行為によってひたすら神に祈っているのであって、そこでは、俳優たちの演技も、カメラワークも、すべて、ドラマのための手段というよりは祈りの行為そのものなのである。べつにそれらが並外れて重々しくうやうやしいからというだけではない。奇蹟を求めるという主題は重要だが、そのためだけでもない。より重要なことは、奇蹟を求めて意識を集中していく過程に恍惚たる至福感が生じることである。タルコフスキーの宗教的傾向はすでに「アンドレイ・ルブリョフ」に現れていたし、いまにして思えば「惑星ソラリス」や「ストーカー」も、SFだから超常現象出現するというよりは、彼はやはり奇蹟をこそ描いたつもりだったのではないか。ただ唯物主義のソビエト映画としては宗教的奇蹟を描くわけにはゆかなくて、止むを得ずSFのかたちを借りたにすぎなかったのではなかろうか。「鏡」のあの有名な草原を吹いてくる風にしても、神とのコミュニケーションと考えれば簡単に理解できる。そして彼は、ソビエトを離れて作った「ノスタリジア」ではじめて、平和のための神への祈りという行為そのものをドラマのクライマックスに描いた。「サクリファイス」は言ってみればその繰り返しであるが、祖国に対して亡命宣言をしたあとであるだけに、よりいっそう、そのことに徹している。宗教を最も抑圧し続けた国で、おそらく今日最高の宗教的作家と呼んでいい映画監督の資質がはぐくまれたということは逆説的であるが、文学のほうにはやはりロシア正教への回帰を公言しているソルジェニーツインがいる。宗教が最も抑圧された国だったからこそ、却っていっそう信仰が純化されたということは大いにあり得ることである。
言うまでもなく、サクリファイスとは犠牲の意味であり、祈りをかなえてもらう代償としての神へのお供物のことである。古くは西欧の信仰では子羊などが殺されて神に捧げられたが、最高の犠牲は人間を殺すことであり、自分の子どもを殺すというような発想にまでいたる。この映画の主人公のアレクサンデル(エルランド・ヨセフソン)は第三次世界大戦が始まったらしいことを、人気も少ないスウェーデンの海辺の家で知って、まもなく生ずるであろう核兵器による人類の死滅の時を息を詰めるようにして待ちながら、自分の持つもののすべてを犠牲にして神に捧げようと考え、自分の家に放火する。信仰を共有しない人間にとってはそれは単なる錯乱以外の何物でもないが、彼は真剣なのである。黒澤明の「生きものの記録」でも、核兵器の恐怖から逃れようとする男が最後に自分の工場に放火した。放火の理由づけはやや違うが、ともにかたくななまでに非政治的であろうとしながら核兵器反対の声をあげた二人の偉大な映画作家が、核廃絶の具体的な方法として、まず自分の財産を捨てること、という論理を選んだことは注目していい。黒澤明は宗教には至らなかったが、そこに危機における宗教的発想の基本がある。タルコフスキーはそこから意識的に信仰の再建をめざしている。すなわち、枯木にだっていつまでも水をやりつづければ花が咲くことがあり得る、という話を最初におき、枯木に花が咲くことを信じよう、と、最後に直接自分の息子に呼びかけることによって。
信仰の映画だからこれは非合理であり、万人を納得させるというものでもない。今日の現実の諸宗教がやっている大衆煽動とも最も遠い所に位置しており、分からない人には全く分からない映画であることにあえて甘んじている。しかし私は、いささかも反ソビエト的な意味でなしに、ソビエトで資質を開花させた作家の中からこういう他人を殺すより自分を犠牲にすべきだという発想が現れたことをこそ奇蹟だと思うし、そこに希望を見るのである。

(キネマ旬報1987年5月下旬号より)


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サクリファイス

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