危機への戦慄
「ストーカー」の前衛性の意味
辻邦生
1.
トルストイが同時代者としてのモーパッサンについて書いた有名な批評がある。それによると、トルストイはフランスのこの短編の名手の才能を高く買いながら、そこに一つの重要な欠陥―すなわち道徳の欠如を見出している。人生を事実そのままに描くという自然主義作家にトルストイ流の説教を要求するのは無理だという理由で、このトルストイ評は近代の芸術意識のなかでながいこと軽視された。しかしそれがどう解されようと、トルストイのこの主張が、現代芸術の衰退の本質を指摘していることは変わらない。これはコリン・ウイルソンの指摘する小説衰退の理由にもつながるが、現代芸術がかくも魂を打つ力を失ったのは、そこに芸術家側の激しい主張がなくなったからなのだ。現代は、激しい主張に対してつねに傾向的な臭いを感じ、そこにむしろ偏狭と鈍重と徒労を見ようとする。つまり芸術は、不偏不党の、形式美のみにかかわる、純粋精神の冒険でなければならないとするのである。
現代芸術がしばしば現実の精神的不安、イデオロギーの混乱、社会制度の崩壊、政治経済の矛盾から身を引き、美的象牙の塔にこもるのは、ひたすらこの内面の冒険こそが、現実の猥雑不純な葛藤にかかわるより、本質的なことと思われているからである。この傾向がもっとも端的に現れたのがモーパッサンの時代であり、それを先駆的に体現したのがこの若き短編作家だった。そしてトルストイはその全人間的な関心の広さから見て、芸術が最も肝心な現実とのかかわりを切り棄てようとするのを鋭く見て、それを、「道徳の欠落」と定式づけたのである。
このトルストイの芸術観は、晩年になって一種の宗教的ラディカリズムと偏執的な厳しさを伴ったゆえに、「道徳の欠落」も純粋芸術派の嘲笑を浴びる結果となったが、しかしこの大作家の真意を正統に位置づければ、やはりその先駆的批評性は高く評価されなければならない。
私はタルコフスキーの作品を見るとき、こうしたトルストイの批評を思い出さざるを得ないのは、これほどソヴィエト映画のなかで前衛的手法を駆使する人が、いわゆる純粋芸術志向の現代芸術家と本質的にはほとんどかかわりを持っていないことを感じるからだ。
はじめて見た「アンドレイ・ルブリョフ」から「鏡」を経て「ストーカー」に至るまでタルコフスキーほど深く激しく言うべきことを言っている芸術家は稀ではないか。彼は、極めて厳しく自由を制約される政治体制のなかにあって、その不自由を逆手にとるようにして、人間の内奥の叫びを具象化している。タルコフスキーにとって人間の現実とはまずロシアの現実であり、人間の歴史とはロシアの歴史であった。画家ルブリョフの生涯を重厚なリアリズム手法で描いた作品では、西欧ルネサンスの光が辛うじて射してくる時代のロシア民衆の苦悩が照らし出されているし、「鏡」では前衛的手法によってソヴィエト革命とその後の精神の彷徨が語られている。
現実の官僚主義がいかに腐敗していても、またスターリン主義がいかに愚劣な状況にソヴィエト社会を追い込んだとしても、たとえば「鏡」一篇を見ることによって、革命が西欧理想主義の一つの結実であったことを深く理解できる。その悲劇も喜劇もそれが理想追究の純粋さに動機づけられているところに生まれている。ロシア人の西欧思慕も、母なるロシアの使命感も「鏡」のなかでは痛いように語られているのである。
2.
「ストーカー」のなかでタルコフスキーはたしかに具体的なロシアという状況を描いてはいない。それはドイツの北部であっても、アメリカの片田舎であっても構わない。ともかく「奇怪な現象が起きた」<ゾーン>と呼ばれるある場所があり、そこへ科学者と文学者とを連れてゆく一人のストーカーがいるのである。
ストーカはこの使命感のために涙に暮れる妻と、足のない女の子を棄てて顧みない。刑務所に何回も送られたことのあるストーカーがそれほど使命感を覚えるのは、このゾーンが「絶望した人」のみが通れる場所であり、ゾーンに守られている<部屋>と呼ばれるものが、「絶望した時に来られる場所」であり「胸に秘められた夢が部屋に入れば叶えられる」からである。しかし教授(科学者)は人人に悪用されることを恐れてそれを爆破しようとするし、作家はそこへ入れば「本性が明らかになる」と思い、そこへ入ることをためらう―映画「ストーカー」の構造はこうしたゾーン探究とその挫折の形をとっている。「アンドレイ・ルブリョフ」や「鏡」と同じくタルコフスキーはここでも主人公の関心に切実にかかわる状況をカラーで示し、そこから遠ざかる状況をモノクロで描いている。
このゾーンの解釈もわれわれ一人一人に委ねられている。それを精神の内面と取って、物質的に絶望したとき、はじめてその意味を真に理解でき、その理解を通して蘇生への勇気を取り戻す意識の場と考えることもできる。あるいは人間に真の幸福をもたらす社会とも、人間関係とも、イデオロギーとも、発明とも、批判精神とも、自由とも、空想とも、美とも考えられる。
だが、画面に現れたゾーンはカラーで描かれているにもかかわらず、工場の廃墟に似ており、危険な地下水道を通って達する部屋は空虚である。それらはおよそ人間の希望とは逆の光景のように見える。
タルコフスキーの作品は、つねにそうであるように、精密に組み合った映画的記号の複合体である。たとえばストーカーの家はたえずそばを通る列車の轟音のなかで震えている。最後の場面ではこの轟音のなかで第九がまじってゆく。ゾーンの場面で一時モノクロに反転するところがあるが、そこでは妻の声で「ヨハネ黙示録」の有名な、天が巻物を巻くごとく消えてゆくという章が朗読されるし、そのあと、キリストに気付かずに議論をつづけるというエマオの巡礼の章句がストーカーの口から洩れる。足のない女の子は超能力者として示されているし、ストーカーの妻は献身的な伴侶であり、ストーカー自身も、刑務所に送られた男にしては立派な蔵書を持っている。彼はおそらく政治犯、思想犯として投獄されたに違いない。ストーカーがゾーンに連れてゆくのは文学と科学、感性と知性を代表する人間である。(たとえば文学者が芸術的美の創造が人類至上の使命であると言うのに対して、科学者はあくまで地上的な幸福の増大を願い、「まだ地球上には飢えた人間がいるのだ」と叫んだりする。)
これらの映画的記号の網目から浮かび上がってくるのは、タルコフスキーが切実に現代の危機的な精神状況を生きて、そこから、状況を告発し、その救済策を切々と模索している、という事実なのである。タルコフスキーがゾーンとか部屋とかストーカーというごとき抽象的記号に書き換えたのは、この問題がひとりロシアだけではなく、普遍的な形で世界で起こっていることを確認していたためではないか。
何よりもたるタルコフスキーには現代の終末論的な精神状況が見てとれるのである。それは社会主義といわず、資本主義といわず、いまわれわれが置かれている状況に他ならない。その意味では、ゾーンとは絶望的状況に置かれたわれわれすべての心的風景の投影であると読んでもいい。すくなくとも、その終末論的な自覚こそがこの悲惨な風景を見させているとは言えるだろう。
果してそれを美的手段によって克服すべきか。実践的技術的手段によって突破すべきか。しかしタルコフスキーはこの両方ともに希望実現の部屋に入ることを挫折させている。そして暗示的にストーカーに「大切なのは自分を信じること、幼な子のように無力であること」と語らせる。
おそらくストーカーが最後に「一番恐ろしいのは誰もあの部屋を必要としないことだ」と呻く言葉がこの複雑な記号体系を一挙に証明しているように思われる。キリストのそばにいるにもかかわらずそれに気づかぬこと―その事実にストーカーである芸術家が戦傈しつつ、この作品をつくったに違いない。タルコフスキーの前衛性がいわゆる純粋芸術と何の関係もないということは、彼のこの戦慄があまりに切実だからだ。トルストイのいう<道徳>とは偏狭な道徳ではなく、まさしく生へのこの論理的戦慄であることをタルコフスキーが思い出させてくれるのはまさにこの一点においてなのだ。
(キネマ旬報1981年12月下旬号より)
幸福と名誉の意味を探求する旅を描く
井口健二
この映画の原作者であり、脚本も担当しているアルカージイ&ポリス・ストルガツキー兄弟は、現代ソビエトSF界でもっとも有名な作家チームであって、日本を始め、欧米などソビエト国外での人気も高い。特に日本の場合、兄のアルカージイが日本文学者として知られ、芥川龍之介や上田秋成、三遊亭円朝などの翻訳も手掛けていることもあってファンも多く、昔から翻訳紹介の進んでいる作家である。
兄弟が作家活動に入ったのは一九五七年である。ところが六十年代の半ば頃から、それまでの共産主義礼賛的なソビエトSFに飽きたらくなり、社会的なテーマを扱うようになる。そして鋭い文明批判を行うようになり、その結果として、いくつかの作品では発行禁止の処分も受けている。
この映画の原作は「路傍のピクニック」といって、一九七二年にレニングラードの文芸誌に、一部省略されて連載発表されているが、これも必ずしもベストの発表形態ではなかったようだ。
一方、監督のタルコフスキーは、問題作の「アンドレイ・ルブリョフ」を始め、社会体制には批判的な目を持った監督である。彼が、七二年映画化した「惑星ソラリス」では、人間の内面的な動きに多くの目を向けてはいるが、同時に科学技術に対する不信感のようなものも色濃く漂わしていた。
この「惑星ソラリス」の映画製作と、今回の「ストーカー」の原作の発表とが同じ時期であったことは、一つ注目に値する事柄だ。そして映画「惑星ソラリス」も、満足な上映はなかなか行われなかったといわれている。
さて、映画「ストーカー」は、このような原作者=脚本家と、監督の手に成る作品である。こういう作家達の作品であることを知ってこの映画に接しようとすると、僕らは当然政治的な内容を予想する。ところがその予想は見事に覆させる、というよりはぐらかされてしまった。
ここで少し映画のストーリーを追ってみよう。
主人公のストーカーは禁断の土地"ゾーン"の中を歩くことのできる特殊能力の持ち主である。"ゾーン"の中には人間では計り知れない危険が満ちあふれている。その危険を理由に、政府は"ゾーン"の周囲を封鎖し、人々の侵入を固く禁じていた。しかし、実は"ゾーン"の中心には、人間のどんな望みでもかなえてくれる金の円盤があるといわれている。ストーカーは今回の依頼人である作家と教授を伴って、封鎖を突破し、"ゾーン"の奥へと向かう。
映画は始め、ストーカーの生活をたんたんと描き、続いて封鎖線の突破までを少しアクション映画風につづる。そして"ゾーン"に入ってからは、奇妙な三人の徒歩兵と共に、三人の間での対論が主題となる。ここで三人は、名誉とは何か、幸福とは何かといった事を論じ合う。
ストーリーの中で書いたように、彼らは"ゾーン"の中心にある金の円盤を目指している。この全ての望みをかなえてくれる円盤が青い鳥的な寓意であることは誰にでも判るだろう。そして三人はチルチルとミチルがそうであったように、幸福と名誉の意味を探しながら旅をして行く。
ここで幸福と名誉と書いたが、この作家達に当然期待される、社会体制については余り触れられていない。寓意を読みとろうとすればできないことはないのかもしれないが、表面的には幸福や名誉について多く論じられている。
このことについて、原作の翻訳者でもある深見弾氏にうかがったのだが、結局のところストルガッキー兄弟も政治的なゴタゴタに巻き込まれるのがいやになり、社会からより人間的な部分に目を向けつつあるのだそうである。そうだとするなら、この映画と原作との違いは、正に兄弟の変化を明瞭に示しているといえる。
映画は大半が討論に費やされており、一見退屈そうな感じを受ける。しかし討論の内容が高踏な政治的問題ではなく、身近な人間性を扱っているために、理解し易く、また納得し易い。このため意外な程に退屈しない。
原作に登場するエア・カーや、"ゾーン"内での奇妙な物理現象などは描かれていない。監督がタルコフスキーであれば、やむを得ないであろう。しかし"ゾーン"の中は、荒涼とした自然が見事に映像化されている。また金の円盤のある館に入ってからの造形も奇妙な雰囲気を出している。
なおSFファンには思わずニヤリとさせられる趣好用意されている。
(キネマ旬報1981年1月下旬号より)