作品評(キネマ旬報より)

救済が終わる

亀山郁夫

かめやま・いくお/ロシア文学者。著書に『甦えるフレーブニコフ』『破滅のマヤコフスキー』『あまりにロシア的な。』『大審問官スターリン』、訳書にドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』『罪と罰』『悪霊』ほかがある。

故国ソ連を捨て、異国をさまようタルコフスキーが行く先々で求めていたのが、魂の不死について臆することなく語れる場所だった。その彼が、放浪の果てに辿りついた場所は、スウェーデンの南、バルト海に浮かぶゴットランド島。敬愛するベルイマンの傑作群が生まれた島という以上に、故国ソ連までの百数十キロという距離の近さがどこか因縁めいている。
タルコフスキーにとって、魂の不死とは、ノスタルジーの感覚とじかに結びつく何かだった。ノストス(「帰郷」)と「アルゴス」(「痛み」)の二つの知覚の融合から生じる名状しがたい感覚こそが、神の存在の認識に通じる唯一の道として意識されていたのだ。むろん現実に存在するロシアは、「故郷」の仮の姿でしかなく、彼の脳裏では、より普遍的な大地のイメージが息づき、そこに棲息する地霊たちとの原始的な交感の姿が思い描かれていたにちがいない。そしてその交感への同化を通して、彼は、人類が失おうとする原初的な調和の感覚に辿り着こうとしていたのである。
タルコフスキーのように、超越との同化という果てしない願望に囚われた人間の目に、現代の人間世界は、まさに科学技術の支配下でグロテスクに自我をのさばらせた傲慢の化身と映る。神がいつ怒りの声を発するか、彼らはその時を待ち続けている。そしてついにその時が訪れてきた。それこそは、どんな人力をもってしても抑制できない核戦争の勃発である。だが、核による汚染は、国家、宗教の違いなど顧みることなく拡散していくため、単一の神に救いを求めることは意味がない。真のペシミストは、個別の宗教の無力さを知り、世界の統合する見えざる力に向かって自らの祈りを伝えようとするはずだ。事実、タルコフスキーもまた、そうした普遍宗教に救いを求め、R・シュタイナーの思想に傾倒した時期があった。知る人は多くないと思うが、シュタイナーの『第五福音書』には、世界の宗教・思想上の差異をのりこえ、それらの基幹に通じ合う普遍的特質によって世界全体の友愛を実現しようとする思想が説かれていた。しかし悲しいかな、現実的に人が複数の神々に祈ることは困難を極める。
演劇界から引退した後、さながらハムレットのごとく「言葉」の世界に生き、堂々めぐりの思弁にはまりこんだ主人公アレクサンデル。知的快楽主義に淫した彼は、同時に、ごくわずかな不意打ちにも耐えられない極度に臆病な人間である。しかも、彼は今もって、神の恩寵からもっとも遠く隔てられた地点にある。なぜなら、演劇界を退いたとはいえ、彼の一人芝居はいまだに止むことがないからだ(それが夫婦間の不和の原因でもある)。その意味では傲慢の化身ともいうべき彼が、終わりの予兆を前に、「主」との和解を模索しはじめる。和解のハードルは高く、自らが持てるものすべてを供物として神に捧げるか、それらを敢然と否定し去ることにしか、救いの道はない。
物語の鍵を握る狂言回しが、異次元の世界に通じ、メフィスト的な悪意さえ滲ませる郵便夫のオットー。アレクサンデルの誕生日祝いに高価な中世ヨーロッパ地図をもって駆けつけた彼が(「犠牲がなければ、贈り物ではない」)、屋敷の広間で「悪い天使」の羽にふれ(轟音を発して頭上を過ぎる飛行機の隠喩)、癲癇のような発作を起こした瞬間から世界は異次元へスライドする。核戦争の勃発を知らせるテレビニュース——。悲劇は、自他の境界で生じるため、妄想と現実の垣根はおのずから取り払われてしまう。
核戦争勃発のニュースに接し、「動物的」ともいうべき恐怖に怯えるアレクサンデルは、愛するイサクを生贄に捧げたアブラハム同様、声を失ったわが子を殺戮しようとまで思いつめる(その気配に気づき、寝返りを打つ息子の目は開かれている)。そして深夜、姿を現したオットーに唆されるまま(「マリアと一夜をともにすれば、すべては解決する」)、教会の裏手に住む「魔女」の家を訪ね、つかのまの交わりをもつ。
キリスト教の神に救いを求めつつ、魔女と交わりをもつという設定は多義的だが、その交わりがいかなる性格をもつにせよ、そこにある特権的な意味が付与されていることは間違いない。キリスト教に逐われた異教の神々も、世界を苦難から引き上げる霊力を持つとタルコフスキーは考えているかのようである。それは、二重信仰の地ロシアに生まれた彼にとって、きわめて自然な発想だったにちがいない。
神の恩寵のごとき静かな朝の訪れ——。
アレクサンデルの祈りが神に通じた結果だろうか。それとも嵐の前の静けさにすぎないのか。アレクサンデルにとって終末の時間はなおも持続している。しかも前夜、彼が神に誓った約束はまだ何一つ果たされていない。残された犠牲の手段は一つ。息子の不在を確認したうえで自宅に火を放つ(辛うじてアブラハムの供儀を避けることができた)。自己滅却ないし自己無化の衝動が彼に襲いかかる。アレクサンデルはあたかもベトナム戦争に抗議して焼身自殺した仏教徒のごとく劫火に立ち向かおうとして、果たせない。ラストは、遠距離撮影による道化芝居——。
神は微笑ましげに、そして冷徹に彼らの茶番劇を見守り続ける。
チェルノブイリ原発事故の発生まで十カ月。

(キネマ旬報2015年3月上旬号より)


サクリファイス

佐藤忠男

アンドレイ・タルコフスキーの「サクリファイス」は、たぶん、カール・ドライヤーの「奇蹟」以後の真の宗教映画である。ふつう宗教映画といえば、宗教について宣伝する映画をさすので、芸術作品とはみなされないものだが、この二本の作品はその意味では例外である。ドライヤーがそうしたように、タルコフスキーもまた、映画を作るという行為によってひたすら神に祈っているのであって、そこでは、俳優たちの演技も、カメラワークも、すべて、ドラマのための手段というよりは祈りの行為そのものなのである。べつにそれらが並外れて重々しくうやうやしいからというだけではない。奇蹟を求めるという主題は重要だが、そのためだけでもない。より重要なことは、奇蹟を求めて意識を集中していく過程に恍惚たる至福感が生じることである。タルコフスキーの宗教的傾向はすでに「アンドレイ・ルブリョフ」に現れていたし、いまにして思えば「惑星ソラリス」や「ストーカー」も、SFだから超常現象出現するというよりは、彼はやはり奇蹟をこそ描いたつもりだったのではないか。ただ唯物主義のソビエト映画としては宗教的奇蹟を描くわけにはゆかなくて、止むを得ずSFのかたちを借りたにすぎなかったのではなかろうか。「鏡」のあの有名な草原を吹いてくる風にしても、神とのコミュニケーションと考えれば簡単に理解できる。そして彼は、ソビエトを離れて作った「ノスタリジア」ではじめて、平和のための神への祈りという行為そのものをドラマのクライマックスに描いた。「サクリファイス」は言ってみればその繰り返しであるが、祖国に対して亡命宣言をしたあとであるだけに、よりいっそう、そのことに徹している。宗教を最も抑圧し続けた国で、おそらく今日最高の宗教的作家と呼んでいい映画監督の資質がはぐくまれたということは逆説的であるが、文学のほうにはやはりロシア正教への回帰を公言しているソルジェニーツインがいる。宗教が最も抑圧された国だったからこそ、却っていっそう信仰が純化されたということは大いにあり得ることである。
言うまでもなく、サクリファイスとは犠牲の意味であり、祈りをかなえてもらう代償としての神へのお供物のことである。古くは西欧の信仰では子羊などが殺されて神に捧げられたが、最高の犠牲は人間を殺すことであり、自分の子どもを殺すというような発想にまでいたる。この映画の主人公のアレクサンデル(エルランド・ヨセフソン)は第三次世界大戦が始まったらしいことを、人気も少ないスウェーデンの海辺の家で知って、まもなく生ずるであろう核兵器による人類の死滅の時を息を詰めるようにして待ちながら、自分の持つもののすべてを犠牲にして神に捧げようと考え、自分の家に放火する。信仰を共有しない人間にとってはそれは単なる錯乱以外の何物でもないが、彼は真剣なのである。黒澤明の「生きものの記録」でも、核兵器の恐怖から逃れようとする男が最後に自分の工場に放火した。放火の理由づけはやや違うが、ともにかたくななまでに非政治的であろうとしながら核兵器反対の声をあげた二人の偉大な映画作家が、核廃絶の具体的な方法として、まず自分の財産を捨てること、という論理を選んだことは注目していい。黒澤明は宗教には至らなかったが、そこに危機における宗教的発想の基本がある。タルコフスキーはそこから意識的に信仰の再建をめざしている。すなわち、枯木にだっていつまでも水をやりつづければ花が咲くことがあり得る、という話を最初におき、枯木に花が咲くことを信じよう、と、最後に直接自分の息子に呼びかけることによって。
信仰の映画だからこれは非合理であり、万人を納得させるというものでもない。今日の現実の諸宗教がやっている大衆煽動とも最も遠い所に位置しており、分からない人には全く分からない映画であることにあえて甘んじている。しかし私は、いささかも反ソビエト的な意味でなしに、ソビエトで資質を開花させた作家の中からこういう他人を殺すより自分を犠牲にすべきだという発想が現れたことをこそ奇蹟だと思うし、そこに希望を見るのである。

(キネマ旬報1987年5月下旬号より)