五十嵐
五十嵐
そうですね。同じ時期にNHKの朝ドラのほうでも最終選考まで残ったことがあったんですが、TBSの「ポーラテレビ小説」でヒロイン役をいただけて。それが終わって、今度は久世光彦さんがプロデューサーと演出を担当されていた『ムー』(77年)に出演しました。『美女シリーズ』の文代役をいただいたのもそのころだったと思います。ただ、映像をご覧になればわかるんですが、初期はまだ、文代の髪が長いんですよ。あれは『ムー』が終わって『ムー一族』(78年)になるときに、久世さんから「髪を切れ」と言われたんですね。だから、特に文代のほうをイメージチェンジしたということではないんです。でも、その後もショートの時期が長かったから、わたしというとショートの印象が強いみたいで。『さかなちゃん』のころもショートだったと思われてますからね(笑)。確かに役柄としてはショートが合いそうな役だったんですが、『さかなちゃん』では10代から30代までを演じたので、年代によって髪型で雰囲気を変えていたんです。そんなこともあり、あの作品では、ショートにはできなかったんですよ。
五十嵐
それが、この時期は常に忙しくさせていただいていたのと、そもそもまだキャリアもない時期で精神的な余裕がなかったこともあって、細かいことはほとんど覚えていないんです。たぶん、オンエアがある土曜の夜に家で番組を観たこともなかったように思います。最近、あらためて当時の映像を観る機会があったんですが、文代の衣裳なんかも「こんなの着てたんだ!」という感じでしたね(笑)。探偵事務所の中だと、比較的きっちりした服を着ていましたけど、外に出るときは、単純に動きやすい衣裳を選んでいたんだろうなと思います。
五十嵐
お恥ずかしい話なんですが、最初は監督の経歴とか、そんなに凄い方なんだということを存じ上げていなくて。でも、今にして思えば、知っていたらもっと緊張していた気がするので、逆に良かったかもしれません(笑)。あれほどの大御所の方なのに、いつも「めぐみちゃん」と呼んでくださって、可愛がっていただきました。
五十嵐
それはありましたね。スタジオドラマの場合はリハーサルを入念にやるので、共演者の方々の芝居を見ながら「自分はこうやってみよう」とか、考えながら調整していくことができるんです。でもフィルムの現場は、ちょっとテストをしたらもう本番という流れなので、独特の緊張感がありました。でも、井上監督の演出は丁寧でキメ細かくて、わたしの芝居がイメージと違う場合は「もう少し、こんなふうにやってごらん」という感じで指導してくださって。だから振り返ってみると、本当に「監督に言われるまま」演じていたという印象ですね。もちろん、当時のわたしが監督の要望にじゅうぶん応えられていたかどうかは、わからないんですが。
五十嵐
基本的にはそうだったと思います。さすがに天知さんに対してはそこまで細かくなかったはずですが、浪越警部役の(荒井)注さんには、いろいろ指示していらっしゃいましたね。注さんの面白さをうまく引き出すための演出という感じで。だから、アドリブのようなものは少なかったんじゃないでしょうか。あったとしても、ちょっとだけ台詞の言い回しを変える程度だったように記憶しています。
五十嵐
それが、文代の立場上、わたしはあまりお芝居で絡むことがなかったんです。ただ、別の作品などで面識のあった方とは、撮影所のメイク室でご挨拶して、少しお話をしたりしました。夏樹陽子さん、古手川祐子さん、萩尾みどりさんとか。大変だなぁと思ったのは、殺される役で来られている女優さんたちですね。わりと容赦ないというか、あり得ないようなシチュエーションで死体が発見されたりするのが、このシリーズの特徴でしょう。寒い時期の撮影なんかだと、かなり辛かったと思いますよ。
五十嵐
夜の遅い時間まで、松竹の大船撮影所のセットで撮っていることも多かったですね。忘れられないのが、セットからトイレまでが遠かったこと(笑)。ただでさえ、ああいう内容の作品を撮っているから怖いのに、夜の撮影所は本当に暗くて、トイレまでの距離がさらに長く感じるんです。本当にオバケが出そうな雰囲気でした(笑)。
五十嵐
普通のセットじゃなくて、仕掛けも必要だから、美術のスタッフの皆さんはご苦労されたと思います。現実にはないような空間でも、思わず引き込まれるような作りになっているんです。クライマックスで毎回、天知さんが変装を解くでしょう。あのときはたくさんの俳優さんが集まった中での撮影なので、特に緊張感がありました。衣裳をパッと脱いでスーツ姿になるところなんて、今なら違ったやり方もあるんでしょうけど、当時は手作りの一発勝負で。うまくいかなかったら当然、やり直しですから、準備も入念にやっていました。でも、あれだけのことができたのも井上監督という存在があったからこそでしょうね。脚本も宮川一郎先生とか、ジェームス三木さんとか、錚々たる方が書かれていた。今、観ても楽しめるというのは、やっぱりそれだけしっかり作られていたことが大きいんじゃないでしょうか。そうそう、ひとつ思い出したんですけど、わりと後半の作品で撮影が終わってから、1カットだけ撮り足したことがありました。クランクアップして、少し休みをいただいていたんですが、当時はケータイもない時代なので(笑)。わたしがどこにいるか、なかなかわからなくて大変だったそうです。もちろん、誰が悪いとかじゃなくて、突発的に発生したことだったんですけどね。結局、わざわざわたしの滞在先の近くまでスタッフの方に来ていただいて、事無きを得ました。
五十嵐
わたしにとっては当時の事務所の社長さんでもあったわけですけど、だからと言って、やっぱり最初のころは特に、気軽に話しかけるなんてことはできませんでした。シリーズを何作か重ねていくうちに、少しずつお話ができるようになっていったという感じですね。ご本人としても「天知茂」のイメージを大事にされていたんだと思います。天知さんに限らず、映画の全盛時代のスターの方は、会社のほうからもそういうふうに指導を受けていたそうです。現場では、注さんとはよく話していらっしゃいましたよ。わたしも天知さんとふたりで話すというよりは、注さんも含めて3人で話していたというか、おふたりの会話を聞いていたときのほうが多かったかもしれません。天知さんは物静かで穏やかな方ですけど、注さんと話すときはよく笑っていた記憶があります。
五十嵐
よくホームパーティを開いていらっしゃったようで、招いていただいたことがありました。あの時代でしたけど、家にカラオケセットがあって、楽しそうに歌っておられましたね。そういう場だと内輪の人間しかいませんし、現場よりはかなり気が楽だったんじゃないでしょうか。
五十嵐
家庭に入ってからは、しばらくお会いしていなかったんです。だから、すごく驚きました。お元気だったイメージしかなかったので。
五十嵐
わたしも、全く実感できませんでした。あれからもう、30年なんですね……。
五十嵐
天知さんという素晴らしい俳優さんの存在と、原作の素晴らしさ。そして井上監督のセンス……。この3つが合わさって、掛け算的な効果を生んでいるんだと思います。もちろん、それぞれの話に出演されたゲストの方々の魅力も大きいです。女優さんだけじゃなくて、西村晃さんや田村高廣さん、伊東四朗さんといった方々の演技も、作品をより面白くしていますよね。当時のわたしは、そういう凄さを全くわかっていなかったと思うんですが(笑)、こうやってシリーズが長く支持されていて、本当に「やって良かった」と感じる仕事のひとつですね。
五十嵐
わたしの人生の中で、天知さんや井上監督との出会いはとても大きなことなんです。おふたりは亡くなられてしまいましたが、ご一緒した作品がこうやってブルーレイ化され、残り続けるというのはうれしいこと。それこそ当時は、こんなふうに何十年も経ってからインタビューを受けることになるなんて想像もしていませんでしたから。過去の自分に会えるというのは、こういう仕事のありがたさでもあり、怖さでもあり……(笑)。ただ、これだけ時間が経ったので、そろそろ客観的に観られそうです。この発売を機に、また観直してみたいと思います。
五十嵐
原作では、文代は明智先生の奥さんなんですよね。テレビでは助手ですけど、名前が原作から来ているというのは知っていたので、少しは意識していたと思います。でも先生はいつでも女性に優しいから……。文代の見ていないところで、どんどんのめり込んでいく。そりゃ「やきもち」も妬きたくなりますよ(笑)。
いがらし・めぐみ:1954年生まれ。愛知県出身。「松浦竹夫演劇研究所」を経て、天知茂が社長を務める「アマチプロゼ」に所属。脚本家・宮川一郎の命名により「森田めぐみ」の芸名で活躍後、ポーラテレビ小説『さかなちゃん』(76年)のヒロイン役を射止めたことを機に「五十嵐めぐみ」と改名し、現在に至る。『美女シリーズ』には77年の第1作から、82年の第19作まで出演。結婚・出産を経て88年に女優業に復帰後もさまざまな作品で活躍しており、近年の主な出演作に『法医学教室の事件ファイル』シリーズなどがある。
わたしは名古屋から上京してきて直ぐに天知茂さんの事務所にお世話になり、先ず最初に「松浦竹夫演劇研究所」というところに入れられたという形でした。でも実を言うと、正式な試験は終わっていたので、事務所のコネクションで「入れていただいた」というのが正しいんですけどね。だから入った後に、同期の仲間たちから「キミ、試験のときにいたっけ?」と言われました(笑)。そこは一年間で卒業するところで、そのまま「実践科」へ進む人もいれば、そのまま辞めちゃう人もいたんですが、わたしは「アマチプロゼ」で実務を担当されていたマネージャーに認めていただいて、そのまま所属することができたんです。とはいえ、アルバイトをしながらの生活で、いろいろな作品のオーディションを受ける日々でした。たまに天知さんが主演の『非情のライセンス』でちょっとした役をいただく程度でしたね。